0じゃない可能性を見つけるブログ

挑戦する事の意味を考えること

挑戦がいいか悪いかは別にして

自分の人生を言葉に置き換えると、そんなに価値のある表現には結びつきません。
若い頃から挫折の連続、何度か転職を経験しながら気が付くと家族もないまま40を超えていました。


そして40代半ばにして新たに転職、しかもこれまでの仕事の実績がそれほど活かされない分野です。

 

前職を終えるまでの中で周囲から得た仕事の評価は決して低いものではなかったと思います。

 

企業でそれなりのポジションを務め、信用も人並みにはありましたし、同僚達にも恵まれていたように思うのです。

 

しかしそれが挫折感に繋がるのは、周囲の見方とは裏腹に自分自身の理想とはかけ離れているような気がしたからです。

古い仲間は口を揃えて、もう歳も歳だし敢て新しいことを始める必要はないのでは?と必ず言います。
中にはその勇気を讃えてくれる人もいますが、内心は社交辞令も含めた言葉でもあります。

 

ただ当の本人の私にとって、他人がどう感じようがあまり重要ではないのです。
なぜなら前職までも人並み以上の努力はしたつもりで、だからこそわかったことも人並み以上にあるという自負があるからです。

 

経験則が足りなかった若い頃と違い、今は自分の能力の水準や比較が割と冷静にできると思うのですが、おそらく過去の職業を続けていても自分が辿り着きたいところには行けなかっただろうと思ったからこその転職なのです。

そんな課程を踏んで企画営業畑から料理人の門を叩きました。
発想して他人の手を借りてものを作る世界から、自分自身の手で作る世界へと身を移したわけです。

 

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仮に一人前になれるまで10年掛かると想定しても既に50代半ばです。
果たしてそれまで体力を維持できるのか、また働き口を無事に確保し続けられるのか、一般レベルの生活はできるのか?といくつもの壁が立ち塞がります。
それを承知のうえで敢て10代、20代と同じく修行からスタートしてみることにしたのですが思った通り厳しい世界、しかも自分の目指すのはあくまでプロとして高く評価されるレベルを念頭に入れています。

 

もし運良く希望通りに腕を磨けたとして、50代から何を仕掛けることができるだろうか?それは毎日のように自問自答するテーマでもあります。
ただ間違いなく言えることがあります。

 

40代での挑戦をネガティブな印象でしか感じない人がたくさんいますが、そういう冷ややかな視線が自分を奮い立たせてくれるのは確かなのです。
才能ある人の中には20代、30代で世界から認められる人もいます。
しかしそれが50、60でも可能性として少しでもあるのであれば、人が何と言おうが私はやってみたいのです。

 

今はそんな覚悟で若い料理人に混じって厳しい修行のまっただ中です。
つらいのはもちろんですが、考えようによってはこの歳で叱られる材料があるのは幸せなのかもしれませんね。
けして毎日が苦痛だけでもありません。